「ハレ」と「ケ」と「ケガレ」
「ハレ」と「ケ」というのは聞いたことがあるという人も多いものですが、「ハレ」と「ケ」と「ケガレ」と聞くとあまり知られていないことも多いものです。
ハレとケというのは日本を代表する民俗学者の柳田國男によって見出された時間論を伴った日本人の伝統的な考え方の一つです。
「ハレ」というのは晴れ、霽れと表記される儀式や祭り、年中行事などの非日常的なもののことを指します。
それに対して「ケ」というのは褻と表記され、日常のことを指します。
ハレとケとでの衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを確然と区別するために用いられます。
ハレとケが意味するもの
もともと、ハレというのは折り目や節目を現す概念です。
ハレが「晴れ」と表記されるのは晴れ舞台や晴れ着といった表現から来ています。
ハレの日にはお餅や赤飯、尾頭付きの魚が飲食されるというのが特徴としてあり、そのためにハレの日以外には日常的に飲食されないことが定着していました。
柳田國男はハレとケという区別をすることで比較をしてそこから未来への潮流を読み取ろうとしました。
非日常であるハレの日があるからこそ、単調になりがちな日々の暮らしが豊かになること、特別な日にできることを設けることで日常の中に小さな工夫で特別な日を生み出すことができること、共同体の中で連帯感を生み出せる行事を作れることに目的があり深いものであるというように柳田は読み解きます。
このハレとケが民族生活のリズムを作っており、これが近代化とともに区別が曖昧になっているということを指摘したのが柳田國男の提唱したかったことです。
しかし、その当時にはさほどこの捉え方はあまり注目を集めませんでした。
それがある程度時間が経ち和歌森太郎がこの考え方に注目をすることで、またこの考え方に注目が集まり学会内で知れ渡っていきます。
ただし、この時には柳田が目指した過去と現在の比較やそれを元に未来を読み解く考え方ではなく、ハレの非日常の中身にばかり注目が集まっていました。
「ケガレ」の概念
新たに「ケガレ」という概念が加わるのは1970年代からです。
これは構造主義の影響を受けて新たな論争がハレとケに生まれたためです。
議論の内容として「ケガレ」が加わるべきではないかということと、ハレとケとケガレというものへの捉え方の多様さをどのように考えていくかということでした。
ケガレというのが加わることで不浄の観念が加わり従来のハレとケに清めや祓いといった儀式の重要性を意味ます。
ハレが儀式としての清浄性や神聖さ、ケが日常生や世俗性、ケガレが不浄性を示す概念であり、そのケガレを回復するためにハレがあるという考え方です。
つまりこのハレとケ、ケガレというのは循環するというのが考えられていますが、あくまでもこれが一般論として定着をしているわけではありません。
もう一つ面白いのが葬儀はハレであるのかケガレであるのかという論争です。
一般的な社会的概念で考えれば葬儀は不幸な出来事であるためにケガレという認識がされがちです。
しかし葬儀にはハレの側面もあるという考え方が保たれているのです。